3月18日
イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」(マルコ5・21、22)
これはカペナウムの会堂の管理者である。イエスはかつてこの会堂で穢れた霊につかれた人を救い(マルコ1・21)また片手のなえたる人を癒した(マルコ3・1)。ヤイロはその時何をしていたのであろう。
かかる奇蹟の行われるのを見て驚いたではあろうけれど信仰は起こさなかったようである。自分の仲間のパリサイ人を恐れたのかも知れぬ。けれども自分の娘が『 死にかけて』いる時に、イエスを思い出さずには居られなかった。
かような不純な態度に対してもイエスは決して同情を惜しみ給うお方ではない。たといその愛が親が子に対する本能的な愛に過ぎなくても、たといその信仰が『苦しい時の神頼み』に過ぎなくても、イエスはその心に同情し、その信仰を嘉(よ)みし、その祈願を容れ給うのである。思えば私どもの信仰や愛はこの人と大した差はないようである。けれども主はこの人に対する同じ愛をもって私どもに臨み給う。
祈祷
イエスさま、私どもは誠に自分勝手なものであります。そして自分勝手な祈願を献げます。それでもあなたに倚(よ)りすがる時にいつでも顧みて下さることを感謝致します。アーメン
3月19日
ところで、12年の間長血をわずらっている女がいた。・・・イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。(マルコ5・25〜27)
イエスに触れるということは信仰の妙諦である。この女はヤイロよりも熱のある信仰の持ち主であった。しかしイエスの知らぬ間にその『着物にさわる』ことによって癒されようとするのは迷信である。イエスのご意志の働かない限り御肉体に触っても癒されはしない。
主がことさらに振り返って『だれがわたしにさわったのか』と言い給うたのはこの迷信から救ってイエスの『着物』でなく、イエスご自身に触れしめたのであった。ここにもイエスの深い同情が見える。迷信的であっても、とにかくイエスに来たりさえすれば救って下さる。而して正しい信仰に導いて下さる。
あるいはこの女は自分のつまらぬ者であることを恥ずかしく思って後ろからソッと触ったのかも知れない。その謙遜はよい。しかし、それがためにイエスの前に出て祈願することも遠慮しなければならぬと考えたのは大きな考え違いである。自分の人格は如何につまらぬものであっても、それはかえって主の憐みを受けるのであることを忘れてはいけない。
祈祷
最も卑しき者を最も大いなる憐みもて顧み給う主よ、全然無価値なる我がためにとこしえの愛を注ぎて私に近づき、私があならに触るるを待ち給うことを感謝し奉る。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著77〜78頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。)
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