待つ人に 枝伸ばしての 蕾なる |
爾来、何度か手にとっては眺めている。日高善一氏の筆になる名文達意の翻訳ではあるが、ほぼ100年ほど前の文語調の訳文で、しばしば原文はどうなっているのかと思いをめぐらし、やや隔靴掻痒(かっかそうよう)の感に襲われたりするときもある。
ところが、今回、青木澄十郎氏の『マルコ伝の一日一文マルコ伝霊解』を掲載させていただく機会に、『受肉者耶蘇』を並行して読む機会が多くなった。そしてこのデービッド・スミス氏の本は『聖パウロの生涯とその書簡』に匹敵する大著であると確信するようになった。
そんなある日、脳裏にかつて読んだオズワルド・チェンバーズの伝記の一文がよみがえってきた。本ブログでもご紹介したエジンバラ訪問https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/10/blog-post_15.htmlの折も、私はブックレット風の『Oswald Chambers』というDavid W. Lambertの本を肌身離さず携行していたのだが、その中に次の一文があった。それはチェンバーズが1907年に日本への初来日する際の船室内での一エピソードを紹介したものである。(同書43頁より引用)
The diaries of the voyage to Japan make fascinating reading. Ghambers gave himself to reading, and we note among the authors on his list at this time were George MacDonald, Walter Scott, and Crockett; also, more serious, Westcott's Gospel of the Resurrection and David Smith's Days of His Flesh.
この文章の最後に何気なく紹介されている本こそ今から100年前に京都室町の牧師日高善一氏がデービッド・スミス氏から許可を得て翻訳し、江湖(こうこ)に提供した本である。その本がまわりまわって今私の手元にある。『いと高き方のもとに』でお馴染みのオズワルド・チェンバーズが33歳のころこのDays of His Flesh.を船内でもう一冊の本と一緒に瞑想しながら日本にやって来た(この時、中田重治もいっしょだったのだが・・)ことを思うて感一入(ひとしお)の思いがする。
デービッド・スミスは『受肉者耶蘇』の第22章「湖を渡りて隠退」と称して、私たちが今マルコの福音書とほぼ同一箇所を克明に説明している。そして以下の詩は、その梗概(こうがい)とも称すべき詩である。簡潔なうちにみことばのエキスが伝わってくる。(『受肉者耶蘇』上巻366頁より引用)
風は深淵の上に咆え
波は重なり覆う山に似たり
救い主は眠りより覚め給いぬ
聖語(みことば)に風浪共に凪ぎぬ
墓場の狂者はここを
絶望の住家となしぬ
何気なく足を運び給いし
彷徨う旅人に悲痛となりぬ
彼はその打ち震うまで美しき眼差しを受け
その温かく強き聖音を聴きぬ
かくてメッシヤの足許に崩折れつつ
乳離れし嬰児の如く泣きぬ
ヒ イ バ ア
(マタイ8・18〜9・1、マルコ4・35〜5・20、ルカ8・22〜39)
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