2022年3月23日水曜日

人知るや、これ慰藉(いしゃ)の端緒なり

通りがかりに拝見した花

イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5・35)

 主イエスのこの一語はいかに会堂管理者の胸に強く響いたであろう。主は人の弱きを見給うたびに度々かく仰せて勇気をつけ給うた。私自身としてもこの語が幾たび私に元気を与えてくれたか知れない。

 パウロも『どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです』(ピリピ1・28)と言った。実にそうである。

 恐怖と狼狽は最初から敗北の途上を歩んでいる。大胆と確信とはすでに勝利の栄冠に手をかけている。『恐れないで、ただ信じていなさい』この武器一つで敵の大軍を破ることが出来る。人生の成功と勝利とは懼れず臆せず驚かず、信じて一直線に進み行く人に与えられる。

 ヨハネはその黙示録において『おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者・・・』などと同列に並べて滅ぶべき人の中に数えている(21章8節)。懼(おそ)れることは不信仰であり、滅亡の第一歩である。

祈祷
神よ、私たちをして常に天を仰がしめ、常にあなたを信ぜしめ、如何なる逆境をも懼るることなく、信仰をもて、絶望の暗黒の中にも光明を見出す者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著82頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、以下の二文はクレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」と題する文章の昨日の続きである。

 主はすべての人々の前で、彼女の信仰が、すべてをよくしたことと、彼女はもう、レビ記的な律法の前においても、その場所を取りもどし、平安の中に行くことができるのだということを述べられた。この日、その家に向かって一人のしあわせな婦人が、いそいそと足を運んで行ったことだろう。
 一方、ヤイロにとってはどうだろうか。このようにぐずぐずしたので、その幼い娘への不安のあまり、いらいらしていたのではあるまいか。そうだ、たしかに彼がもっともおそれていたことが起こったのである。一行のところに群衆をかき分けながらヤイロの家からの使いの者が、衝撃的な知らせを持ってやって来た。彼らはイエスの真の力を知ることに、なんとほど遠いことか。ショックを受けたこの父親の気を確かにするために、時を移さず主はこう言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」)

※なお、例のDays of His Flesh(『受肉者耶蘇』)では第23章『カペナウムへの帰還』と題して、巻頭に以下の詩が掲載している。まことにイエスさまのヤイロへの愛・御旨が充満している詩ではないか!

死は明らかに確かとなりぬ。 されど主にとりては慕わしき休憩のみ。
見よ、主の遺し給えるこの賜物は、生命の門戸のみ。慰藉の端緒のみ。
神の聖き山頂への階梯のみ。而してこの聖き幕屋への門は
神これを備え給えり。人の作れるに非ず。
  セント・ベルナルド )

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