2022年3月24日木曜日

時と場合を選ばれる主

折節に 色香愛でては 往き来する

そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。(マルコ5・37)

 他の弟子らは途中から返して、三人だけつれて行かれたらしい。十二弟子の中からこの三人を特に選び出したことは今始めて書かれてある。この他には、山上の変貌の時(マタイ17・2)とゲッセマネの祈祷の時(マタイ26・37)とである。

 どういうわけであろうか。イエスが不公平であったのではあるまい。地上の御生活ことに三年半の御公生涯の間主はどんなに淋しくあらせられたであろうかと考えられる。雑草の中にある一本の喬木のように一人として主の心を解する者は無かった。その中でもヨハネ、ヤコブ、ペテロの三人が少しはイエスの御心に触れるものを持っていたらしい。

 ヤコブの如きは主の死後、間もなく殉死した(引用者註:使徒12・2)。彼らはそれほどな熱情を献げていた。非常な僭越な考え方かも知れないが、私の大いなる願いは主のお淋しさの中に少しでも分け入りたいということである。

祈祷

淋しき主よ、野中の一本杉のごとく冷ややかなる世に立ち給う主よ。願わくは私をあなたの忠犬となし、少しばかりあなたの顔色を伺い得る者となし給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著83頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。青木氏の感想を読み、他の方々がどうとらえているか調べてみたが、特段触れていなかった。現に並行箇所であるマタイ9・25は「イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり・・・」とさりげなく書いている。ただ、間垣洋助氏の『マルコによる福音書』には次のように書いてあった。同書95頁より 

 この三人は、十二弟子の中でもとくにイエスのそば近くいた者で、重大な事件の時には、この三人だけしかイエスについていくことを許されなかった〈変容の時9・2、ゲッセマネの祈りの時、14・13〉。イエスは、娘が死んだと聞き、普通の病気のいやしと異なり、死人の復活の奇蹟が必要な時に直面して、事が重大であるので三人だけ、ともに連れて行かれたのであろう。)

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