安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。この人はこういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で・・・ありませんか。こうして彼らはイエスにつまずいた。(マルコ6・2〜3)
突然彼らを驚かさぬよう、静かに安息日まで待ち給うたところに周到な用意が窺われる。しかしこれほどに注意深い紳士的な態度も、彼らが目撃した『力あるわざ』も、彼らの承認せざるを得ない『与えられた知恵』も彼らの信仰を喚起するに足りなかった。それは『この人は大工ではありませんか。マリヤの子』であるという理由であった。
見慣れるということはかえって人を盲目にする。外観と皮相とに見慣れるということが心を硬化させるものであることは踏み固めた路傍に落ちた種の譬(たと)えでお説きになった通りであるが、ナザレがその実例を提供することになったのは主にとってどんなに悲しいことであったであろう。イエスは三十年の永い間完全な生活を続けられたがためにかえってイエスは凡人と見えたのであろう。そして彼らは隣人の一人に過ぎないイエスを妬まずには居られなかった。
祈祷
神よ、願わくは、私たちを恐るべき霊魂の硬化と、さらに恐るべき隣人への嫉妬より私を救い出し給え。願わくは、尊きものを惜しみなく尊ぶ心を与え給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著89頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、クレッツマンによる『聖書の黙想』の「自分の郷里では敬われない預言者、師の中の師であるかた」と題する文章の92頁を以下に紹介する。
この安息日の日に、昔なつかしい会堂で主が彼らの教師としてその前に立った時、そこにいた多くの者は、彼らのなじみの、今では有名な同郷人が、何と言うのだろうかと聞き耳を立てたのは確かであろう。主は、ご自分だけのためになることや、人々から尊敬を受けることを少しも望まれていなかった。しかし、如何に主は、この人々に、救いについての知識をもたらそうとされていたことか。そこで、主の説教は深い感銘を与えはしたが、それは自分中心の希望や願いにもとづくものではなかった。
多くの者は、主の教えと、主が示したおおうべくもない知恵と、彼がなさって来られた大いなるわざに驚いた。しかしその驚きの中には、あるそねみも含まれていたのではなかったか。人々は、彼の母や弟妹たちをもよく知っていたのだ。そこで彼らは主を自分たちより思い上がった者として、彼につまずいたのである。主は、彼らの態度を十分に理解することができた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」6・4)
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