2022年3月8日火曜日

十二使徒教育の要諦

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。・・・ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(マルコ4・33、34)

 時は秋である。おそらくはこの二、三日がイエスのもっともお忙しい日であったろう。前年の一月ごろに伝道を始られめてから約一ヵ年半になって、いわゆる人気の高潮に達した時である。がしかし主はその群衆の大多数は『路傍』の人であり『礫地』の人であり、かなりすぐれた聴衆でも『茨』の畑であることを愈々ハッキリと見抜かれて、しかもたとえの形式ではあるが、これを公衆の前に宣言してしまった。

 実に『光は暗黒に照り、暗黒はこれを悟らず』(ヨハネ1・5文語訳)である。大衆に見切りをつけたイエスは少数の弟子らと益々親しくなって、これからは主に十二使徒の教育に力を注ぎ給うたのである。『弟子らには人なき時にすべてのことを解き給えり』(34節文語訳)と意識した弟子たちはどんなに嬉しかったことであろう。この二、三日は毎朝イエスとともに海辺に出て大衆と共に教えを受け、毎晩家に帰って説明を聴く。まことに天国のような日々であったろう。

祈祷 

主イエスよ、あなたのところに集まって来る者は多いのですが、あなたに聴きあなたに従おうとする者は少うございます。願わくは、私を『路傍』の人、『礫地』の人たらしめ給うことなく、あなたのお弟子のひとりとしてくださり、みことばを理解できる者としてくださいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著67頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、この一連の主イエスのたとえ話に関連して『The Days of His Flesh』by Smith Davidに次の説明がある。邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳356頁より

 耶蘇のこのたとえを用いられたのは、元来十二使徒教育のためであって、これらの人物を選抜せられたのは、この世を辞せらるるのち、事業を継承せしめんがため、その高遠な職分に対する準備を全うせらるるのが最大重要な事件であった。

 ゆえに耶蘇の特殊の準備はこの十二人に集注せられ、愈倍深く彼らの教育に一身を傾倒せられたのであった。そのたとえの教訓も畢竟、この最大目的を完成せんがための工夫であった。一度たとえをもって民衆に教えられたのち、必ず人なきところにおいて十二人にはその真意を解釈せられた。これ決して民衆を等閑にせらるるのではない。ただ大事業を完成するの機関を整理せんがため、しばらく世界を掌握すべき努力を一部分臨時に弛められたに過ぎなかった。

一方、クレッツマンはその黙想75頁で次のように語っている。

 このように、人々に、ことに単純で無学な人々に、みことばを説き明かすことは、主の常であった。マタイが言っているように、彼らは必ずしもこれらの教えを理解しなかったが、自分たちの日常生活から引き出された説明と一緒にそれを取り上げ、それについて思いをめぐらし、お互いが意見を話し合ったのだろう。

 今日に至っても、これらのたとえは、わたしたちの救いにかかわっている永遠の真理についての深遠な奥義を理解させ、さとらせるために役立っているのである。これらの教えが、イエスと弟子たちだけの時に、彼らに説き明かされたと全く同じように、わたしたちにも明らかにされるとは、なんと恵まれた特権だろうか。イエスと共に過ごす時以上に祝福された時が、他にありうるだろうか。)

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