イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。(マルコ4・40)
弟子から見ればイエスの沈着と権威とは不思議であるが、イエスから見れば弟子たちの臆病と無力とは不思議であった。いつも天父への信頼に充ち満ちたイエスはたびたび人々の『不信仰に驚かれた』(マルコ6・6)
イエスにとっては天の父を信仰し得ないということは不可思議なように感ぜられたのであろう。信ずる心は順当な心、人間本来の心、まっすぐな心、あたりまえの心であって、信じない心は不自然な心、ひねくれた心、転倒した心、曲がった心であって、人間ありのままの心ではない。
うぶな人や子供や処女を見るがいい。信じやすい心を持っている。これが誰でもの心であるべきなのである。社会が虚偽であるために、信じない心を造り上げてしまったのである。だから、神に対してだけは子供のように初々しい処女心を持たねばならない。すなわち信じたい心であらねばならない。
祈祷
主よ、あまりに汚れたこの世に染まり、ひねくれ曲がって初心(うぶ)な心を夢の中に置き忘れてしまった私をあわれんで、どうかあなたに対してだけは常に幼子のごとく、処女のごとく信じやすい心を与えて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著72頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。青木氏の霊解はほぼ1節づつていねいになされているが、ややもすると マルコ4・35〜41の全体の流れを読み落としかねない。そこでクレッツマンの黙想を以下引用したい。同書75〜76頁からである。
長い忙しい一日の働きは、終わろうとしていた。まことの人間である主は、群衆からはなれて、憩いを取る必要を感じられた。それから主は、ご自分のことをかまうことなく、夕食のために休もうともされずに、湖の向こう岸に渡るため、舟をこぎ出すよう命じられた。
一行は他の舟がついてくるのをとめることができなかった。ぐったりと疲れられた主は舟の艫(とも)にある木を枕にして、眠り込まれた。そうだ、彼こそまことの人でありつつ、全能の神なのだ。絶望にとらわれた弟子たちは、主を求めて空しく終わることはない 。
つむじ風のような激しさを伴って、周囲の山々から吹き降ろしてくるすさまじい風も、押しとどめられるほかはない。山のような波も主が命じたもう時に、直ちに、しずまらざるをえない。このような力ある方を、彼らの中に持ちながら、なぜ弟子たちはおそれにとらわれたのか。信仰を欠いていたのか。わたしたちの困難や試練が、主の支配の手に及ばないということがあるとでも言うのだろうか。わたしたちはその時思い起こそう。「いったいこの方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。)
0 件のコメント:
コメントを投稿