2022年3月25日金曜日

慟哭(どうこく)の家に対する主のことば

中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」(マルコ5・39)

 ラザロの死んだ時にも『わたしたちの友ラザロは眠っています』(ヨハネ11・11)と言い給うた。イエスは今これらの人をすぐ甦らせるのだから『眠る』と言葉を用いたのだと解釈する人が多いがこれは苦しい解釈である。それでは『 死んだのではない。』の語は余りに強すぎる。 

 私は思う、主イエスの眼には霊界がアリアリと見え透いている。かような罪知らぬ幼児や、ラザロの如き信仰の人の霊はアブラハム、イサク、ヤコブとともに神の前に生きているのがハッキリとイエスの眼に映じている。ただ肉体だけが静かに横臥(おうが)している。

 だから『死んだのではない。眠っているのです』と自然に御口から洩(も)れたのだと考える。とにかく彼らの死は私たちの眠ったのと同様の状態で、天上に目覚めても再び地上に目覚めるも神の力をもってすれば大した区別はないのであったろう。

祈祷

甦りの主イエスよ、私の多くの友は今天上にて私を待ちつつあると感謝申し上げます。あなたは私の肉より死の刺を取り除き、今しばらくの後、安らかに眠りて彼らの群れに入ることを許し給うを信じて感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著84頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、『受肉者耶蘇(Days of His Flesh)』は「慟哭(どうこく)の家」と題してその384頁に次のように記している。

 ヤイロが繋(つな)いだ一縷(いちる)の望みも今は全く絶えたとの便りは彼のもとに達したが、イエスはなお婦人にことばをかけておられた。『あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。』と使いの者は言った。イエスは言下に『恐れないで、ただ信じていなさい。』と命じ、一行を伴いてその家に赴き、その特に愛せらるるペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人のみを従え室内に歩を移された。

 騒擾(そうじょう)かまびすしき慟哭の光景は眼前に開展した。古の習慣では、雇われた哀者(なきて)が笛に合わせ、声を揚げて嘆きをそそり、知人の群れは或は友情より悲しみに堪えずして、或は葬式の振る舞いを目的に、夥しく集まって来た。これイエスの聖眼(みめ)には痛ましき光景であった。死に対するイエスの見解はかくの如きものではない。『神に対しては、みなが生きている』(ルカ20・38)として死を慟(なげ)くを戒められた。『暗と死との大海を圧して、光と命の無限の大海は漲る』イエスは決して『死』という語を用いず『眠る』という言を適用せられた。この光景を痛んで『なぜ取り乱して、泣くのですか』と先ず彼らを戒飭し、『子どもは死んだのではない。眠っているのです。』と仰られたが、これを聞く一同は嘲笑った。しかるにイエスはその嘲笑するものを駆逐して両親及び三人の弟子を伴い、その室に入り、娘のか弱き手を取りつつ、母のその愛児に言うごとく『タリタ・クミ』と仰られた。

 見よ、眠れるものはこれを聞いて眼を開いた。その快癒には時間を要せず、予後もなかった。致命の重症の跡形もなく、全く快癒したのであった。『すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。』イエスはついで食物をこれに与えよと両親に命ぜられたので、茫然たりし彼らは漸く我に帰った。彼らは娘の物を食うのを見て始めてその全快したことを確実に認めたことであろう。)

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