9「寛容なる戦略」 この事件の意義如何。彼を支配するてがかりを得んがため、名医のごとくイエスは狂人の妄想に準じて万事を取り扱われ、この乱暴な考案にもその恩寵溢るる目的を遂行する機会を探し求められた者であった。かくて陽にはその思慮に従ったかのごとく装われたのであった。『行け』と仮定の汚れた霊に命ぜられたが、同時に恩寵溢るる事業にその豚を用いられた(ルカ5・4〜6、ヨハネ21・6)。イエスは人の主たると同時に獣の主であって、弟子たちの網へ魚群を誘われたるごとく豚の一群を、その聖旨(みこころ)に従わしめられ、豚を叱咤して急に恐れ惑わしめらるるや否や、彼らは溺死せんがため崖下へ馳せ落ちた。策略は図に当たって、六千の「汚れた霊」が豚に乗り移れるものと考えた狂者は主の命令を聴いて、豚の荒れ狂いつつ走り出したのを見て、己が救われたことを確実に意識した。「汚れた霊」はこの男を捨てて、豚に移り、湖に駆け入ったがため、もはや彼を苦しむべくもないと信じたのであった。ユダヤ人の思想によれば、海はゲヘナに通ずる三道中の一路で、「汚れた霊」はその遺憾この上なき境地に追い出されて陰府(よみ)へ履き落とされたのであった(ルカ8・31)。かくして彼を離れたことは疑うべくもない。現に彼は自らこれを目撃したのではないか。彼の狂気は鎮まって、イエスの聖旨(みこころ)のままに服した。
10「狂人耶蘇を認む」 この男は従来イエスを知っていたものであろう。彼はイエスを認むるや否や、その聖名(みな)を唱えて挨拶し、メッシヤとしてこれを祝している。しかしこれは解き難き問題ではない。かくのごとき狂気には爾く久しく罹っていたものとは思われないのであって、その病に犯さるる前にこの驚くべき預言者の名声を聞き伝えていたことであろう。否、彼はカペナウムにも渡ったことがあったに相違なく、その説教を聞き、また奇蹟を目撃したことであろう。彼はこれを心に留めていたけれどもその考えを押さえていたのであった。しかるに今、イエスに邂逅してユダヤ人の待望せるごとく、メッシヤの悪魔を駆逐し、最後の審判において彼の夥しき侶伴をも駆逐せらるべきその恐ろしき大事業を開始せんとして、ここにも来られたことをその錯乱した頭脳にも思い浮かべたのであった(マタイ8・29参照)。
11「ガダラ町民の無情」 豚の溺死したうわさの町の内外に伝わるや、即刻多くの群衆が、その騒動の演ぜられた舞台へ集まって来た。彼らはイエスと狂者ーーもはや狂者とは言えぬ。全快して衣紋を正してその恩人の足下に座したーーとを見た。彼らは事件の真相を知っていかなる手段を取ったであろう。彼らはその町民の一人が救われたことを喜び、その救い主の脚下に伏して、恭敬感謝の意を表すべきはずであったろう。なおあるいは急ぎ帰って界隈の病者を伴い来たって、等しくこれらをも癒されんことを願うべきはずではあるまいか。しかるに彼らは敢えて何事をもなさざるのみならず、迷信的恐怖に駆られ、これにまさる騒擾の彼らの財産に加えられるべきを警めた。彼らの間にイエスの居らるるを危険に感じ、ここを去られんことを念じつつ『この地方から離れてくださるよう願った』(マルコ5・17)
12「耶蘇の退去」 イエスは彼らの希望を許された。元来十二使徒とのみ共に居て神の国の奥義を彼らに伝えんがためこの東岸に来られたのであるが、その計画は全く破れた。今や激昂した無情の群民に囲まれ給うては、ただカペナウムに帰らるるほかはないので、再び小舟に乗り移られた。曩(さき)に従随した狂者は、イエスの乗船せらるるを見て、ともに侶伴に加えられんことを願ったけれども許されず、『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』と命ぜられた。
13「前の狂者の伝道」 イエスは奇蹟を行なわるるや、必ず秘密を守るべきを求め、『だれにも知らせないように』(マルコ5・43)と命ぜられた。しかるにこの時のみはその地方を去らるるので、ただ好奇心に駆られて、教訓には耳を傾けようともせず茫然たる群衆の集まり来る虞(おそれ)がなかったので、平生の習慣を破られ、退去のあとに噂の伝わるべくば、その奇蹟の広く人の知るところとならんことを望まれたのであった。この男は感謝胸に溢れて『そこで彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた』(マルコ5・20)。彼はイエスの侶伴としてその使徒の列に加わるを許されなかったけれども、なお他の方面に採用せられ、彼らに劣らざる神聖な事業に当たらしめられた。彼は己が郷国に残留してその同胞の間に活動し、彼を恵まれたるその恩寵の活ける記念として、これを聴くものは皆祝福を受けたことであろう。
2022年3月20日日曜日
Days of His Flesh 受肉者耶蘇(下)
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