2022年3月26日土曜日

至誠の人イエス

人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは、みんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。(マルコ5・40)

 至誠天に通ずという語がある。イエスというお方は至聖そのものであられた。『わたしは真理である』(ヨハネ14・6)と仰せられたのには他の意味もあるであろうが、至聖一貫であられることを言明されたのである。さればイエスほど真剣に生きた人は他にない。

 イエスには虚偽がなく浅薄がなく、いい加減がない。まことであり、真剣であり、一生懸命である。今この幼児を死の手から取り戻そうとするにあたってイエスの真剣は一層深刻であったに相違ない。外界に対しては全く無念無想となって霊界を注視しなければならない時である。

 雇われて泣き叫ぶ人々の騒音や、浅薄な人々の嘲笑は少なからず邪魔となる。精神の統一を邪魔する凡ての人々を追い出して、ご自分と同じ心になれる人々だけにしてしまったのはもとより当然である。私はこの場面を想像するとすごいほど厳粛なイエスのお顔が浮かんでくる、

祈祷

ああ主イエスよ、あなたの真剣さを思うとき、私がいかにも不真面目に生きていることを感じます。ことに祈るときに真剣に霊界を見つめないことを感じます。どうぞこの罪を赦して、「みんなを外に出し」真剣な祈りをすることを教えて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著85頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。昨日は『Days of His Flesh受肉者耶蘇』の文章を紹介したが、今日はクレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」の3/23の続きの文章を紹介する。同書87頁からの引用である。

 人々は何か劇的なことが、起ころうとしていると素早く見てとって、主のまわりにいっそう群がろうとしたにちがいない。しかしイエスは、そのようなことを望まれていなかった。主はただ三人の証人たち、ペテロとヤコブ、ヨハネの兄弟だけを伴って、この会堂管理者の家に来られた。そこには死によって引き起こされる大騒ぎが待っており、多分職業的な泣き役と思われる人々がすでに大声をあげてこの子供の死を嘆き悲しんでいた。

 主はきびしく、この望みをすてた悲しみのしるしを押しとどめられた。彼にとっては、子供は死んだのではなく、眠ったにすぎないのである。すると「人々はイエスをあざわらった」。神の御子の中の全能の力を信ずることはいかにむずかしいことか。わたしたちはいともたやすく、悲しみが胸を閉ざす時、そのことを忘れるのだ。イエスはそこで彼の権威を示され、すべての人々を外に出して、子供の両親と三人の弟子たちだけを連れて、死んだ子供の部屋に入ってゆかれた。

 そして彼らの悲しみを増し加えることなく、圧倒的な喜びをもって、彼らの心をみたされる。その女の子の手を取り、「起きなさい」と命ぜられ、娘は、いのちと健康とを取りもどして、両親のふところにもどったのだ。主はその娘に何か食物を与えるようにと付け加えられた。しかし、主はこのことについての誤った噂が立てられることを望まれなかった。

 今や、この一家は、主が死の力を打ち砕くために来られ、彼こそ、わたしたちの救い主なのだと信ずるにいたるのである。

以上がクレッツマンの文章であるが、昨日のデービッド・スミスの『受肉者耶蘇』の引用文と言い、そして青木氏の日々読んでいる霊解と言い、それぞれ寸分違わない主のみわざへの感謝・確信があふれていることを思い、励まされる。ーー『女帝小池百合子』石井妙子著の証言記事とこれはまた何と言うちがいか。) 

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