3月20日
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。・・・イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
掏摸(すり)に財布を盗まれてあとから気がついたように、イエスはあとから能力の己から出たのを知ったという意味ではあるまい。女の方では密かに触れたのであるが、イエスの方では女の初(うぶ)なる心の祈願に答えて癒し給うたのである。
全能の神が人を救うぐらいは知らぬまにでも出来るだろうと考える人もあるかも知れない。否、私どもでも神様の費用についてあまり考えないかも知れない。主が人を救い給うには大なる費用がかかるのである。主の御能力の大なる損失があって始めて私どもが救われるのである。
神ご自身の御身体から能力の流出するのを感ぜられたほどの御痛みがあって始めて人間が救われるのである。主は私たちのために汗どころでない。血を流し給うほどに、生命を消費して救いを成就して下さるのである。されば救われた私どもを『人を知ろうとして、見回しておられた』のは自然のお心持ちであろう。
祈祷
主イエスよ、あなたは己より能力を出し、生命の血を注ぎ出して、私たちを癒し私たちを救い給う。されば、この卑しき私をも『人を知ろうとして、見回しておられた』ことをありがたく感謝し申し上げます。アーメン
3月21日
『真実を余すところなく打ち明けた』は信ずる者の態度としてイエスの最も喜び給うところである。イエスがこの女を『それをした人を知ろうとして、見回しておられた』のもこの態度を惹き出さんためである。『ひれ伏し』とある文字は『倒れる』とも訳し得る。すなわち文字どおりにイエスの前に平伏したのである。この女のイエスに対する尊敬と感謝の念が十分に現われている。
されば主は『あなたの信仰があなたを直したのです』と言ってこの女の霊魂を救い給うた。もちろんこの語のみならば必ずしも霊魂の救いを指すとの解釈はできないが、次いで『病気にかからず、すこやかでいなさい』と言い給うたのを見れば、これは霊魂の救いに相違ない。主の御在生中に病を癒された人はたくさんあるが、それと同時に霊魂の救われた人は割合に少ないようである。
祈祷
主よ、あなたは何事にても『真実を余すところなく(あなたに)打ち明け』る者を喜び給う。かかる者に対して救いと癒しとを与え給う。願わくは、あなたの前にあって私に砂一粒のかくれたることもなからせ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著79〜80頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。)
0 件のコメント:
コメントを投稿