2022年3月9日水曜日

さあ、向こう岸へ渡ろう

さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。・・・すると、激しい突風が起こり、・・・(マルコ4・35〜37)

 今日は夕方に家に帰り給う代わりに『 さあ、向こう岸へ渡ろう』と言い給うた。無理解な群衆を離れて静かに弟子らと語り合うためである。弟子らの心は踊ったであろう。今こそ十分に親しく御教えを受けることができる。ある意味において自分たちだけでしばらく主を占領することができるのである。

 ところが忽然として暴風が起こって来た。舟はくつがえらんばかりである。親しく主に触れ奉(たてまつ)るどころのさわぎではない。いのちが危うい。一生懸命に舟を救わなければならない。ああ人生は実にかくの如くである。円満なる幸福を味わい、さらに大なる希望を抱いて進み行くとき、忽(たちま)ちにして暴風に出会うのである。決してそれが悪い希望ではない。しかるに天はこれを妨げる。全く不可解な感を抱くこともある。かかる時こそ疑ったり惑ったりしてはいけない。イエスの如く神を信じて嵐の中にも安眠したい。

祈祷

主よ、嵐の吹くときも、波高く打ち寄する時も、楽しき望みの砕かるるときも、あなたが私とともにおられることを覚えて、あなたとともに安心して眠れる静けさをお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著68頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。なお、このガリラヤ湖の一連のできごとについて『The Days of His Flesh』by Smith Davidに次の描写がある。邦訳名『受肉者耶蘇』上巻日高善一訳367頁より以下引用する。題して第22章「湖を渡りて隠退」

 耶蘇はカペナウムに長く滞在せられなかった。群衆にはつきまとわれ、有司らには苦しめられ、十二使徒の教育に専心努力をせられ得なかった。ゆえに機会を作らんがため、ある日の夕暮れ、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と仰せられた。急ぎ出発して群衆を帰らしめ、「舟に乗っておられるままで」終日の労役にも少しの休憩もせられず、栄養をも摂取せずして小舟に投ぜられた。しかし群衆は耶蘇に別るるを惜しんで、ある者は舟を求めて、同時に出発したのであった。

 耶蘇はその漁夫の弟子たちが小舟を操る間、ともの座に腰を下ろしておられたが、湖上七マイルにあまる航程を、その日の激務に疲労せられ、小舟のゆるやかなうねりと、へさきやふなべりを打つなぎさも心地よきままに、舵手の座を枕に深い眠りに沈まれた。・・・)

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