それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。(マルコ4・32)
先の種蒔きのたとえには『空の鳥(4節)』が悪魔を指しているからここでも同じである。すなわち教会の中に悪魔が働き出すのを預言したのだと解釈する人もある。そうかも知れぬ。
しかし大多数の学者は神の国の発達の大なることを示したのだと考える※。ある人は空の鳥は世界万国を指すとさえ言っている。自分だけが救われるのでなく『大きな枝』を出して旅する人の蔭となり空飛ぶ鳥の休みどころとなり、すべて周囲に近づき来る者の祝福となるような人格にまで成長するのだと解しても差し支えはあるまいと思う。
とにかく、私たちの信仰、私たちの教会は、死物であってはならぬ。否、ほんものであるならば、死物ではあり得ない。死物でないから、停滞し得ないはずである。常に動き、常に働き、間断なく生長する、しかも生き生きとした緑色を呈して、見る人に快感を与えるものでありたい。
祈祷
主よ、枯れ木の野中に立てるが如き私をあわれんでください。私には枝もなく葉もなく、緑の色の潤いもなく、道ゆく人の蔭とならず、空の鳥さえ宿ることができません。願わくは、あなたの霊をもって再び私を生かし、水のほとりに植えた樹が時に至って実を結び、葉もまた萎まないような者にしてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著66頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。※KGKの『聖書註解』はその828頁で次のような見解を述べている。
このたとえには、御国の膨張を、とるに足らぬはじまりからの展開として見る見方と、空の鳥〈悪の霊〉を宿すほどに異常に大きく発展するとする見方〈キャンベル・モルガン〉の二つがある。後者の見解には、象徴の使用で一貫性がある〈例、鳥はこのたとえでも、たねまきのたとえでも悪を表わす〉点でまさっており、歴史的にも支持されている。それは教会が、コンスタンチヌス帝の時、思わぬ輝かしい地位と保護を得た時から堕落し始めたことによってもわかる。他方、伝統的な見解は、より単純で、神の言葉の究極の繁栄を楽観し確信しているこの章全体の流れとも一致する。)
0 件のコメント:
コメントを投稿