2022年3月22日火曜日

悠揚迫らざる主の態度

イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」(マルコ5・35)

 ヤイロの目から見ればイエスが余りにユックリし過ぎたであろう。名も知れぬ貧しい女が途中でイエスに触ったくらいのことは捨てて置いて、瀕死の自分の娘のところに急いでほしかったであろう。私どもも神様のお答えがユックリし過ぎると感ずることは度々ある。しかし主は一人を救うために他の人を捨て置くようなお方ではない。綽々(しゃくしゃく)たる余裕をもって凡ての人を救い給う。
 かかる急ぎの時にもイエスの悠々迫らざるお姿が見える。貧しき一人の女を霊も肉も完全に救って、ヤイロの娘は手遅れになったように見えたけれども、人が絶対絶命の時、かえって神の御手はヨリ強く働き出すのである。人をしてヨリ深く信ぜしめんためである。

祈祷
神よ、あなたの御手の働きの遅しと見ゆるとき、願わくは私をして静かにあなたを信じて待つことを得させ給え。たといあなたの歩みの遅きによりて、私の望みの尽きたりと思わる時もあなたを仰ぎて動揺することなからせ給え、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著81頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいている。なお、以下、クレッツマンによる『聖書の黙想』の「健康を回復した病める婦人と蘇生したヤイロの娘」と題する文章の85頁を紹介する。 

 がダラ地方の人々は、主の滞在を望まなかったので、イエスは前の日に多くの群衆に教えを語られた、ガリラヤ湖の西の岸にもどられた。岸辺には、イエスを待っていた多くの人々が、まだ前と同じ場所に集まっていたようである。しかしいつものように主が人々に教えを宣べ始める前に、会堂管理者の一人であるヤイロが息せききって主のところにやって来た。彼はそれまで何度も、イエスの教えを聞いたことがあったし、多くの人々を主がいやされるのを見たこともあったらしい。興奮のあまり、彼の言葉は、こんがらがって、はっきりしなかったが、彼の可愛がっていた幼い娘が、まさに死にかかっているというのである。しかしヤイロは、もしもイエスが、足を運んで、娘にいやしの手を置いてくれるなら、彼女は生き返るのだと、主に信頼を寄せていた。少しもためらいなく、主は、彼と一緒に出かけられた。もちろん群衆も主のあとに続いた。彼らにとっては、みことばを聞くよりも、こんな場合、主がどんなことをなさるかを見る方にもっと関心があったらしい。

 しかし気がはやっているこの父親の信仰は、きびしい試みに出会うようになっていたのである。イエスに群がり押し寄せる群衆の中には大きな苦しみを背負っていた一人の婦人がいた。 彼女にとっての苦しみは、もっとも悲惨な肉体的な病気の苦しみばかりでなく、レビ的に言って、会堂や神殿から締め出される、不浄な者とみなされていたということもあった。彼女は彼女を知っているすべての人間からのけ者にされていた。それまで、全財産を医者に費やしたが、誰も彼女をなおすことができず、苦しみと屈辱の中に、この二十年間を過ごし、容態はますます悪くなるばかりだった。わたしたちは、イエスによるほとんど信じがたいほどの病気のいやしを耳にした時、彼女の胸がどんなにおどったかを想像することができる。「お着物にさわることができれば、きっと直る」こんな考えが心にわいた。

 わたしたちは、彼女の謙遜と彼女の信仰の偉大さを心から賞賛せねばなるまい。好機がやって来た。みんなが、主のまわりに群がっているので、彼女が気づかれることはあるまい。そして信仰による一触れは、即座の完全な救いをもたらし、新しい力と健やかさが、彼女の中にみなぎった。しかし、それは気がつかないでは、すまされなかった。このような信仰はかくれるすべもないのだ。キリストは、神としての彼の力が、ご自分から出て行ったことに気づかれた。この婦人に、したことを告白させ、人々の注意を彼女へと促そうとされたイエスの行動は、彼女のきわだった信仰を指し示し、同時にさらに強めるためのものであった。)

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