すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。(マルコ5・17)
何と悲しい心を持つ人たちであろう。これほどの奇蹟を見、これほどの人格に接しながら、イエスに近づこうとはせず、かえって去り給わんことを求めた。先刻、汚れた霊が『自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した』(10節参照)のも無理はない。
イエスに去らんことを求むる人たちの住むところは汚れた霊の住みよい場所であるにちがいない。私は霊界の有様を多く知らない。しかしこの話によって汚れた霊という者はたくさん存在する、そして私たちの意外とする様々な働きをするものであることが示されてただ戦慄するばかりである。
しかし、イエスは彼らの上にも絶対の権威を持ち給うゆえに、主にある間は彼らの私たちに触れることはできないことを知って安心する。
祈祷
主イエスよ、願わくは、私と共にいまして私を去り給うなかれ。願わくは、サタンをして私に近づく余地なからしむるまでに、常に私とともにいまし給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著75頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけさせていただいているものである。 なお、以下、昨日に引き続いてクレッツマンによる『聖書の黙想』の80頁の「追い払われた悪霊のレギオン」と題する文章の続きを紹介しておく。
わたしたちは、豚の群れの飼い主の痛手を察することができる。彼らは町にとんで行って町やその近くにこの話をふれまわった。そこで、人々は何ごとが起こったのかとのぞきにやって来た。そして実際にそこで目にしたものは、彼らを驚かせた。
今や事実、多数の悪霊から解放され、きちんと着物をつけ、正気にもどったあの男が一人の異邦人、イエスの足もとに、おとなしくすわっているのを見て、ある神秘な力の前にいるようなおそれを感じた。しかし、かと言って、この奇蹟の真実性については疑うべくもない。かつて悪霊たちにとりつかれていた哀れな男の上に起こった出来事を語りうる目撃者たちも沢山いたし、水の中には、豚の死体が浮かんでいるのが見られたにちがいない。
しかし豚の群れの損失のゆえか、それともこの神秘的な異邦人に対する恐れに心を動かされたのか、人々は、主にどうか去っていただきたいとと乞うた。明らかに、彼らは福音を聞こうとする心がなかったのである。なんと多くの人が、ちょうどこのような姿をしていることか。彼らは、このかたこそ悪魔の力をほろぼすために来られたかたとは気がつかない。彼らにとってはこの世的な損失の方が、天の賜物よりも、大きな意味を持っていたのである。)
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